「ただいまー」
目を覚ますと妹が帰ってきた。というよりは、寝ている間に出かけていたらしい。
遠く母屋から聞こえてくる声に、雪路は思う。
どこ出かけてたんだろう?
既に中学校を卒業したわけだし学校ではあるまい。友達とでも遊びに行っていたのか。いや、面倒見の良い妹のことだ、後輩たちの練習を見に部活に顔出ししたのかもしれない。
しかし、答えを出す前にどうでもよくなった。考えて分かるものでもなし、分かったところで何か景品が貰えるわけでもないだろう。
それよりも当面の問題は、
「どうするかなあ」
二度寝を決め込むか、それとも起きるか。
時計を見ずとも、窓から差し込んでくる傾いた弱い日差しを見れば、夕方だと分かる。それでもまだ早い、ギリギリ夕方と言った感じで、すぐに夕飯、というわけにはいかない。だから、今起きる必要はない
考えるのも億劫だし、寝転がってしまおう。
眠れば二度寝、眠らなければ起きたらいい。
そして、ゴロリ。
目をつぶって考えても、眠気はこなかった。どうも二度寝というわけにもいかないようだ。となれば、起きるべきなのだろう。
寝転がったそのまま、テーブルの下から手を伸ばし、置いてあった缶ビール・日本酒の瓶を次々と振っていく。だが、どれもわずかにピチャピチャと音がするばかりで軽い。
「これも空か」
それでも惰性で端まで振っていくと、一本ずしりと重い手応えに当たった。手探りでタブを引き起こし、跳ね起きると同時に口に運ぶ。
口に広がったのは炭酸――そして、濃い甘さ。
しかしそれは酒ではなかった。
「なんだコーラか」
ぬるくはあるが、他の飲み物を取りにいくのも面倒だ。
いや、何もかも億劫だ。
二日酔いのせいか、それとも二日酔いで目を覚ましたのが夕方な事にガックリきてるのか、どうにも気だるい。
そもそも家に帰ってくる時からして、酔った勢いで朝帰り。「朝帰りで、里帰り」などと洒落てみたところで、鬼のような表情をした妹にはウケなかった、というよりは問答無用でデコピンを頂いた。
その翌日の夕方起きなのだから、流石の雪路も連日の豪遊には後悔が止まらず、行動する気力なんて起きるわけが無い。
「それにしても、こんなの買ったっけ?」
休みを利用して帰ってきた実家に持ち込んだ中にも、居住スペースと与えられていた、というよりは隔離された離れに置いてあった中にも、こんなものがあった記憶はまるでない。
首をひねっていると、テーブルの上に紙が一枚。コーラの缶がかいた汗で滲んだ『出かけてきます ヒナギク』という書き置きの文字。
もう一度口に運んだコーラの生ぬるさが、妹が出かけた時間がだいぶ前であることを教えてくれた。
「あー……」
頭をかいていると、ドアから音がする。
コンコン。
つまりはノックの音だ。手早く軽い響きは、ヒナギクのものだろう。雪路は思わず、うつぶせになった。
眠っていれば叱られることもないだろう。
後になればこっぴどく叱られるその場しのぎにしかならないが、その場だけでもしのげるのなら、上出来だ。
「お姉ちゃん?」
ノックの主は想像通り、ヒナギクだった。
「入るわよ」
扉が開く。妹が近づいてくる。わざとらしく鼾をたてる。妹の気配が遠ざかる。
助かった?
しかし、雪路の期待はあっさりと裏切られた。
「起きてるんでしょ? 炭酸、全然抜けてないわよ」
「え?」
思わず声が出た。
耳を澄ませてみると、たしかに炭酸の泡が弾ける音が聞こえる。これでは、開けたばかりですと言わんばかりだ。
そして反応してしまった以上、退路は塞がった。
「……何か用?」
「用がないなら、こんなところに来ると思う?」
「夕飯ならカニクリームコロッケがいい。お小言ならいらない。お金くれるんなら、そこに置いてって」
「あげないわよ。いいから、こっち……むきなさいよ」
ぶつぶつ言いながら、体を起こし、振り返る。
すると、そこには見慣れたはずの見慣れない光景が広がっていた。
黄色いリボンに、桜色のワンピース、そしてワンピースよりも少し濃い色のジャケット。
妹に、制服。
姉であり、教師である雪路にはどちらも見慣れたもののはずだったが、それは新鮮だった。
しかし、そこに少々の初々しさを滲ませているものの違和感はない。
「似合っているじゃない」
我が妹ながら、たいしたものだ。
素直に誉める姉に、妹は照れたのかそっぽを向いて、「そう?」と一言。
「二人には、もう見せたの?」
雪路が問うと、今度は頬をかき始め、ドアに向き直る。どうやら、離れから出て行くらしい。
「ん……まだ」
歯切れの悪い、というよりは、どこか恥ずかしそうな口調でヒナギクが答える。
「ふーん。今日は二人とも帰り早いんだし、お披露目するんならそれから着替えて見せたらよかったのに」
「……制服姿で出迎えて驚かせたかったの。……それに」
風に吹かれた桜の葉がスルリと部屋の中に滑り込んでくる。
「それに?」
「……一番最初に見せたかったしさ」
小さくそう言うと、妹はそそくさと母屋へと駆けていった。
夕日以外の理由で赤く染まっていたその横顔を見て、夕飯の準備を手伝おうと、雪路は立ち上がった。