コーヒーの湯気を顔に当てる俺に、明君がおずおずと切り出した。

「それでどこか悪いところありました?」
「んにゃ、特に。教科書に載せたいぐらいの健康体だな」

 診察結果を伝えると、重病患者の家族のように張りつめていた明君の顔が崩れた。安心したから、ではなく拍子抜けしたから。
俺の返答は肩すかしだったようだ。こちらとして肩をすくめざるをえない。
 だってホントのことだしなあ。
 医者が、患者やその家族が期待あるいは覚悟していることに応えなければならない道理はないのだ。
 明君から頼まれた診察。初音ちゃんにはさんざん嫌がられたが、明君が言うことだからと押し切ってなんとか受けてもらった。その結果を伝えるために、俺たちは今こうして休憩室に二人座っている。その話をするために、ここに来るよう声をかけたときの返事は「そんなところでいいんですか?」といささか非難めいていた。どうもよっぽどの重病を覚悟しているなと予想はしていたのだが、実際温度差を目の当たりにすると、こちらも困ってしまう。

「じゃあ、悩みごとがあるとか」
「それもいつも通り。というか、そういうことなら君の方が知ってるんじゃないか?」

 重々しさを取り戻した明君の顔が、俺の返事に再び脱力する。
 これまたホントのことなのだからしょうがない。
 そもそも四六時中一緒にいるんだから、誰より先に気づいてしかるべきだろうに。

「いや、そばにいるからこそ気づかないこともあるんじゃないかって。
 これといって、珍しいことじゃなく、その時、強く思ってたことでもいいんです。教えてくれませんか?」

 それはそれで一つ理屈なのかもしれない。自分が一番よく理解していると信じているからこそ、自分の見落としている変化が大事に感じられる、といったところだろうか。
 とりあえず、初音ちゃんがその時最も強く思っていたことを正確について医者としての説明責任を果たしてやる。

「そうだな、肉とか、ちくわとか、今日のおかずは何か……とかがデッドヒートしてたな」
「……いつも通りですね」
「ああ。長引いたのがいけなかったかな。途中からこっちに噛みついてきそうだったよ」

 あれはまさに餓えた獣の目だった。
 脱力する力も残っていなかったのか、明君はうなだれた。
 初音ちゃんの変調に明確な理由を得られなかったのが応えたのか、それとも噛みついてきそうな初音ちゃんを想像したのか、あるいはその両方か。
 ともかく、納得はいっていないようだが質問は尽きた。となれば仕事を終えた医者は去るのみ。
 が、その前に人生の先輩としてフォローを一つ。
 手に持っていた書類でポンと頭を叩いて、一言だけ言い残す。
 一度振り向くと、残された少年は最後の一言の意味がわからなかったのか不思議そうに首を傾げていた。

「何々どうしたの、修羅場?」
 
 休憩室から出ると、豊満な胸を強調するように大きく胸元の開いたワンピースの女性が立っていた。
 外から俺と明君が話しているのを覗いていたのだろう。ニヤニヤと笑うその人は、我らがバベルの影のドン、壷見不二子管理官だ。
 彼女のことを知らない人間が見たら十人中十人が美女と言うだろう。が、彼女をよく知るこちらとしては会う度にがっくりと来てしまう。主に年齢的な意味で。
 それはそれとして、名誉の為にもここは抗議しなければなるまい。

「高校生相手に、んなヘマしませんって」
「んじゃ大学生となら?」
「……ノーコメントです」

 軽蔑の眼差しを向けてくる管理官が追求の手を伸ばしてくる前に、事情を説明することにした。このままフォローなしだと、あることないこと噂を広められそうだ。

「明君に初音ちゃんの健康診断頼まれましてね」
「初音ちゃん、どっか悪いの? さっき、薫ちゃんとじゃれて遊んでたけど」

 明君に説明したように、悪いところは皆無。管理官の言うとおりなら、まもなく明君も初音ちゃんの空腹を満たすために昼食の準備に追われるはずだ。そうすれば悩んでる暇もなくなるだろう。

「ちょっとした異変があったんですよ、明君的に」
「明君的に?」

 頷き、診察を頼み込んできたときの、そして結果を聞いていたときの明君の剣幕を思いだし吹き出す。
 なんであんな心配してるのに、気づかねーかな。
 
「初音ちゃんがスカートはいてきたんですって」
「ふーん、へー」

 どうやらお察しいただけだようで、管理官の表情がゆるんだ。

「それで診察?」
「ええ、それで診察です。泣きそうな勢いで頼み込まれました」
「ん〜。それならまあ訓練メニュー追加ですませてあげよっかな〜」

 楽しそうに管理官が頭を掻きながら笑む。

「さようで」
「そっ、でも不二子優しいから、訓練後には食事つき」
「どっちの?」
「ノーコメント」

 なるほど、こっちも答えを最後まで聞く必要はないらしい。
 まあ、なんだ。がんばれ。
 気づかない君が悪いんだから。

「んで、その道のスペシャリトとしては、明君に何かアドバイスしてあげたの」
「ヒントぐらいはあげましたよ。医者としてではないですけど」

 一字違わず、繰り返す。
 
「本人の自然治癒力次第だって」