「ああ、元気だよ。もしかしたら帰国するの、ちょっと遅れるかもしれないから。
 いや、ちょっと……新しい研究対象が見つかりそうでさ。うん、うん、わかってる、大丈夫。ずっとこっちってことはないから。それじゃあ」

 そう言い残して皆本光一は、両親への国際電話を切った。
  ――新しい研究対象。
 咄嗟に口にした言い訳であるが、なるほどたしかにそんな見方ができないこともない。
 キャロラインの超能力を引き出すための実験中の事故で生み出された人格・キャリー。
 
皆本が帰国を遅らせるかもしれないと両親に伝えたのは、彼女を生み出してしまった研究チームの手伝いを依頼されたからなのである。
 研究チームの手伝いと言えば格好もつく。だが、実際問題として皆本を待っているのは、深刻ではあるが間抜けな現実だ。要するに、とどのつまり、大きな赤ん坊の、


「子守りなんだけどな」

 皆本は苦笑を浮かべ、キャリーの部屋に向かうことにした。





 扉を開くと、彼女が飛びついてきた。

「あー! わー!」

 簡素なワンピースに身を包んだ大きな赤ん坊は、皆本が来たのが嬉しいらしく、満面の笑顔で皆本の髪をいじくってくる。 
 教授は人見知りと言っていたが、じゃれ付いてくる彼女を見ていると、とても信じられない。
 キャリーの上げる嬌声の隙間を狙うかのように、弱々しい声がした。
 
「……ようやく来たか」

 キャリー越しに声のした方を覗けば、自分が行くまで彼女の面倒を見るように――合コンへの出席が条件ではあるが――頼んでいた賢木がボロ雑巾のように寝ている。いや、この場合倒れていると言うべきだろうか。どうやら、キャリーは、いまだ友人に良い印象を持っていないらしかった。教授の言葉の正しさと、どうやら自分は彼女に懐かれる希少例であるらしいと自覚しつつ、謝罪の言葉を口にする。

「……すいません、ちょっと教授にレポート出すの手間取っちゃいまして……」
「ったく、お前に抱きついた瞬間泣き止みやがって。さっきまでビービー泣いてたんだぞ? まぁ、いいや、タッチだ、タッチ……三回は出てもらうからな」

 友人は、要求も忘れずによろよろと右手を掲げた。
 この逞しさは、コメリカで学んだことなのか天性のものなのか、と苦笑しつつ追加請求を承諾しタッチ。

「さっ、何して遊ぼうか」

 キャリーに向き直り、そう微笑みかけると、言語を正しく理解しているかはともかくとして、何を言わんとしているかは察したようで――彼女が望んだ言葉を皆本が口にしただけかもしれないが――、キャリーは少し考えた後、両手を前に突き出し上下させはじめた。

「ブーブー」

 どうやら、車のことらしい。
 ミニカーか、それとも足漕ぎでの車でもあるのかな、まさかラジコンってことはないだろうが、と部屋を見まわすが、オモチャに埋め尽くされた部屋にも、それらしいものは見当たらない。
 はて、車じゃないのかと迷う皆本の体が浮いた。

「キャハハハハッ」

 キャリーの笑い声と共に、窓から室外、そして大学の構内を突き抜けていく。視界に入った途端に、どんどん後に遠ざかっていく景色。
 ――ブーブーっていうのは

 自動車のように速く移動すること、だったらしい。
 困惑を通り越して驚愕へと感情を加速させつつある皆本は当然のように叫ぶ。

「うわっ、うわぁぁああ、ストップ、ストップ、キャリー」

 皆本の絶叫に驚いたのか、キャリーが自らの能力に急ブレーキをかける。が、加速と同時に空中に浮くことも止めてしまったらしく、二人とも、池に突っ込んでしまった。
 派手に舞いあがる水滴が虹を作り、キャリーがそれに手を伸ばす。
 皆本の束の間の虹に、一瞬微笑んだが、それはそれ、これはこれ。
 心を鬼にして、キャリーの腕をつかむ。

「キャリー、超能力をそんな風に使っちゃいけない。メッだぞ。キャリー」

 真顔の皆本の、真剣な声にキャリーが身を竦め、泣き出す。
 キツく言いすぎたかと、後悔の心がないではないが、キャリーはキャリーとして、大きな赤ん坊なりに生活していかなければならない。そうであるならば、例え短い時間であるにせよ、躾は必要であろう。それにしても、楽しいことではないが。
 内心で、叱ることの辛さを、少しだけ味わった後、皆本は表情を緩めた。
 
「もういいよ、キャリー。わかったんなら、それでいいよ」

 ポンと頭を軽く叩かれ、ようやく泣き止んだキャリーは、自分を指差した。

「キャイー?」

 ――自分のことなの?
 そう言いたいようであった。

「そうだ、君のことだよ。キャリー」

「キャリー……キャリーッ!」

 今度は正しく発音して、何度か目をパチクリとさせた。
 そうして、嬉しそうに笑うと、自分の名前を繰り返す。
 皆本を指差し、首を傾げる。

  ――あなたは、なんて名前なの?

「僕かい? 僕は皆本光一。コーイチだ」

「コーイチ……コーイチ! コーイチ! コーイチ!」

 さっきと同じように、そしてさっきより嬉しそうに「コーイチ」と繰り返す。
 自分と大切な他人を認識した大きな赤ん坊は、自分の名前を連呼され気恥ずかしそうに笑う皆本の手を握ると、フワリと二人で、文字通り空中を舞った。